2024年9月11日 更新

近代哲学への道〜近代哲学の始まりからフッサール現象学に至るまで〜

ペンネーム:Seiji

はじめに

以前、私はこのコラムで哲学の歴史について書いてみました。
哲学とは、智を愛する学問であり、物事の根底にある本質を解き明かす学問です。
今回はこの哲学の歴史の中で、フッサール現象学に至る、近代哲学の変遷を少し書いてみたいと思います。

近代哲学の「根本問題」

近代哲学の祖と言われるのが、ルネ•デカルト(1596-1650)という「方法序説」を書き残した哲学者です。名前は聞いたことがあるかもしれませんね。
このデカルトからの近代哲学においては、近代哲学の「根本問題」と言われた、「この石ころと私の見ている石ころは同じものか」という命題、つまり、「主観と客観は一致するのか」という、「主観と客観」、「認識と対象」の二元論と呼ばれる問題を解き明かすことが中心となりました。

デカルトは、「我思う(cogito)、故に(ergo)、我あり(sum)」「コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum)」という哲学の命題で有名ですが、
この意味は、「私が世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない」というものです。

何か、哲学的な難しい言い回しですね。

これは、「客観的なものをすべて疑ったとしても、主観である私自身の存在は疑いようがない」という意味合いです。

これが、近代哲学の「根本問題」である「主観と客観」、「認識と対象」の二元論を議論する出発点となります。
その後、カント(1724-1804)、ヘーゲル(1770-1831)、ニーチェ(1844-1900)らがこの問題を解き明かそうとします。

フッサール現象学

そして、その後に続く、エルムント・フッサール(1859-1939)がひとつの独創的な哲学的思考の原理を見出し、主観/客観の難問を全く明らかに解き明かします。

この問題に対するフッサールの考えを哲学者 竹田青嗣氏の著書「現象学入門」を引用しながら書いてみたいと思います。

『私たちは、客観という前提から主観の正しさを検証できない。だとすれば、人間はただ「主観」の内側だけから「客観の正しさ」の根拠をつかみ取っている、と考える他ない。問題なのは主観と客観の「一致」を確証することではなく、客観が現実であることは「疑えない」という確信がどのように生じるのか、という主観の中での確信の条件を突き止めることにある。なぜ人間は「主観」の中に閉じられているにも関わらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑えないもの」として確信しているのか、を問うべきである。』

フッサールは、私たちが主観の中だけに存在しているにも関わらず、客観的事実を確信しているのは、そこに「疑いようのないもの」があるからだと述べています。

また、主観にそういう「疑いようのないもの」を与える根本の条件は知覚(五感)という、主観にとって自由にならないものの存在に他ならないと考えました。

この考え方は、「私たちの客観世界にある憶測や想像、想起といったものから物事を判断するのではなく、ただ単に私の主観から、目の前にある現象を純粋に私の知覚(五感)を通して判断する」ということです。

これらフッサールの哲学的考え方を「現象学」と呼びます。皆さんも「現象学」という名前は聞いたことがあるかもしれません。

ここに、近代哲学の根本問題であった「客観と主観」、「認識と対象」の二元論についての議論は終止符を打ちます。

「フッサール現象学」が伝えたいこと

そして、この「フッサール現象学」で大切なことは、「私たちが物事(現象)を捉え、判断する時、私たちの持っている憶測や想像などの不確実なものから判断するのではなく、私たちが疑いようのない知覚(五感)を通して、その物事(現象)を捉え、判断する必要がある」ということです。
この考え方は、現代社会においてもとても重要な考え方であると思います。

最後に

そして、この「フッサール現象学」は、20世紀における哲学の巨人といわれたサルトルの「実存主義」など、その後の近代哲学の発展に繋がり、また、心理療法家である、カールロジャーズの「来談者中心療法(person centered approach )、フリッツパールズの「ゲシュタルト療法」、ジェンドリンの「フォーカシング指向心理療法」など、様々な現代の心理療法理論へと大きな影響を与えることとなります。

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